平成30年3月13日
京都市
勝林寺
澤正
勝林寺
京都で最も北にある毘沙門天。檜の一木造り。毘沙門天の左(向かって右)に吉祥天、右(向かって左)に、善膩師童子(ぜんにしどうじ)の、親子家族の三尊を祀る。
毘沙門天は、平安時代の作で、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ)は、江戸時代、清水隆慶の作。
江戸時代、当時の和尚の夢枕に開山師が現れ、誰も気づいていない、と言ったことで、勝林寺の本尊となった。それまでの本尊は、現在はお前立ちの毘沙門天。
本尊の毘沙門三尊の前には鏡があり、神仏習合だったことが分かる。鏡の両脇には、リアルな百足(ムカデ)の取っ手の坪がある。百足は毘沙門天の使いで、足が多いことから、お足(お金)と繋がる。百足は鉱山の守り神で、毒性が強いことと、前にしか進まない。
本堂の内陣は、わざと傾斜になっている。天界に近づこうとするために、坂道をわざと作った。
毘沙門天には、体内仏があり、秘仏である。
お前立ちの毘沙門天は、高さが50~60センチか。光背は後で発見されたものである。外陣の向かって左には、延命地蔵尊で、半跏趺坐は、左足を台座から下ろしている。向かって右には、宝冠大日如来、こちらは結跏趺坐で平安時代のもの。
毘沙門天は多聞天と同じで、その違い
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元はヒンドゥー教の財宝の神クベーラがモデルとされております。クベーラの別名がヴァイシュラヴァナでそれを音写したものが「毘沙門天」で、更にを直訳すると「多く聞く所の者」と言う意味になり略して「多聞天」と言う事になります。四天王として祀られる場合は「多聞天」、独尊で祀られる場合は「毘沙門天」と呼んでおります。眷属は夜叉と羅刹です。
<cite>- https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1299594802 -</cite>
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外陣の襖絵は、大正15年の、日本画家の櫟文峰 (あららぎぶんぼう)で、初めてご開帳になった年に奉納された。
向かって右は虎が一匹で、毘沙門天、向かって左には虎が二匹で、吉祥天と善膩師童子を表す。
格天井には、竜が描かれている。龍は火災から守ることと、声が遠くまで届くことから、仏の教えを遠くまで届かせるため。
提灯(トーチ)にも、百足が描かれている。
隣には、聖観音菩薩像、右手に剣、左手に経巻、右脇(向かって左)には、文殊菩薩は、獅子に乗っている、陀羅尼経に、獅子に乗っていると書かれている。、向かって右には歴代住職の位牌。
建物は、元は、近衛家の家で、建築の専門家が見ると、公家風だと分かるそうだ。
庭のナマズは陶器で、火事よけに奉納されたもの
澤正は、剣神社の前を川の方に一度下って、また登ったとところにある。
元、貿易商の建物で、外観が周囲と異なるのですぐに分かる。
個室の中には、ワインセラーと、キャビネットには江戸切子のグラスが並ぶ。
そば会席で、そばを使ったコース料理。
最初に出された湯呑が、七福神の手書きの絵柄。箸置きや、皿も、客毎に微妙に異なるデザインである。
ここで、営業を始めたのは、16年前で、もともとは、そばボーロから始まった。