応仁の乱で焼け残った3箇所のうちの一つ。
本堂の建築年は明確ではない。
最初は、念仏道場で、天台宗から真言宗になったのは、安土桃山時代の頃。
往生要集、地獄を逃れるには、念仏を唱えること。
本堂の向拝は、豊臣秀吉の増築による。
昭和40年台に本堂の外側の色を塗り直している。
外側、柱の彩色はその時のもの。
本堂の扁額の字は、藤原佐理のもの。
宝物殿には、空也上人像、平清盛像、快慶と息子の像、平安時代と鎌倉時代の地蔵菩薩、閻魔大王の坐像と、その横には、奪衣婆がある。
空也上人像は、950年頃、運慶の四男の作。運慶は六人の息子がいた。宝物館にある像は、長男の湛慶。
奪衣婆は、江戸元禄の頃、商人が10歳でなくなった娘のために、寄進したものだと、像の下に書かれていた。関西で奪衣婆像は珍しい。
本堂の観音像は、12年に一度、辰年だけの開帳。
宝物館で、ビデオを見せてもらった。
100年前の町家レストラン。5000円のランチコースは、十分な量でした。